鳳凰三山登山

青木鉱泉(1100m)から滝を見ながらドンドコ沢コースを登り鳳凰小屋に1泊して鳳凰三山(地蔵岳2764m、観音岳2841m、薬師岳2780m)を縦走し中道コースで青木鉱泉に戻る高低差1741mのコースを登ってきました。1日目は生憎の霧ため滝が見られなかったが2日目は快晴でオベリスクのも登れ、360°の眺望で北岳、間ノ岳、甲斐駒ヶ岳、槍ヶ岳、穂高岳、八ヶ岳、富士山などが見れました。

寄稿者:田波さん (2019年9月13・14日)

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◆一日目:青木鉱泉(1100m)から鳳凰小屋

◆二日目:鳳凰小屋から鳳凰三山縦走し青木鉱泉へ

◆登山道で見かけた花々

◆コースマップ

 

三人組の登山日記

北アルプスの女王「燕岳(2696m)」に三人組で挑戦しました!!

8月25、26日で北アルプスの女王と言われる燕岳に登ってきました。2日間とも快晴に恵まれ、待望のイルカ岩を始め、雷鳥親子、ブロッケン現象、雲海、ご来光と盛りだくさんの経験ができました。

寄稿者:田波

 

「がんばっています」シリーズ

第3弾》社内報「FUJISAWA」1995年版の「がんばっています」コーナーより

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北海道キャンプツーリング紀行(Ⅴ)

●北海道のパノラマ絶景は開拓と火山で作られていた

 

5. 北海道キャンプツーリング記録

◆北海道ツ-リングは爽快

青い空の下の道、まっすぐ伸びる広い道、そして左右には、広大な牧場、原野、農場が広がる。そんな中をバイクで走るのは爽快!

気持ちよくないはずはない。しかしツーリング日の半分は、霧雨と寒さとの中での移動。あらかじめ寒さの想定していたのですが、長時間の移動は、本当に厳しかったです。出会うバイクツーリストは意外と少なく、6月という時期もあり、年中日曜日の世代が中心なのでしょう。道内ではツーリスト(オートバイ、自転車)とすれ違う時、互いに手を挙げて挨拶を掛け合います。初めのころは手を挙げるタイミングで躊躇していましたが、だんだんと自然にまた楽しく手を挙げて挨拶を交わすようになって行きました。

一日の移動距離は、長くて約250km。これに要する移動時間は5時間程度です。すべて下道移動ですが、信号、交通量が少ないということで平均50km/hの移動スピードが確保でき、目的地までまっすぐに道が伸びているということで意外と早く目的地に到着できました。(昨年実施した信州のキャンプツーリング下道移動の平均速度は信号ストップ、渋滞等で約35km/h、道もくねくねとし、移動距離は稼げなかった。) キャンプ目的地にはお昼過ぎには到着し、周辺散策、テント設営等を行って、4時過ぎにはテントに籠っていました。

◆北海道のキャンプは快適・安い

 北海道では14泊キャンプしました。今回キャンプ候補地は事前に選定しておき、天候、コースに応じて、その候補地のどれかに向かい、すべて飛び込みで利用しました。キャンプ候補地選定は「①人里離れた山の中は避ける(ヒグマに会いたくない)」「②近くにお風呂施設があるところ」「③ランドリー設備があるとなおよい」「④500円前後と安い・無料できれいであれば、なお良い」などの基準でリストアップしておきました。北海道にはキャンプ場料金が500円/泊、あるいは無料というキャンプ場がたくさんあります。そしていずれも芝生が美しく快適で、整った設備と申し分ありません。サマーシーズン前の6月ということで、キャンプ利用者が少なく、土曜日を除き多くのキャンプ場は、ソロキャンプか、広大なキャンプ場に数人という状態でした。ファミリーキャンプ、若者のキャンプの騒音で夜遅くまで悩まされることはなく快適でした。しかし、人里に比較的近いキャンプ場であっても、ところにより「熊対策として電気柵を設けました!」「熊が目撃されたことがある貼紙」「トイレに熊にあった場合の対応方法の貼紙」と、肉食獣ヒグマについて気を抜けない情報が満載でした。

 夜は持参した温度計値で10℃ぐらいに下がる日が何日かありました。でもテントの中は多少暖かく、夕方4時ぐらいからテント内で調理・ビールタイム・食事・行程検討で時間を潰し、夜8時(まだ薄暗い)には、厚着をして寝袋の中へもぐりこみました。持参しているコット(簡易ベット)と空気マットで地面からの冷気を遮断したので就寝中寒さが堪えられない、ということはなかったです。多少寒いぐらいがよく寝れたのかな。朝3時(もう薄明るい)にトイレタイム と二度寝をし、朝5時行動開始(朝食・荷物パック、テント片付け、バイク積載) 7時過ぎに出発する、とうのが日課でした。

「1. 遥かなる大地の懐へ」編は⇒こちら

「2. 自然と開拓の厳しさを垣間見た大地の果てへ」編は⇒こちら

「3. 多様な自然を見せる大地で」編は⇒こちら

「4. 自然と和人の営みの歴史が見えた渡島(おしま)半島」⇒こちら

凸凹三人組登山日記

716日〜17日にかけ「後立山連峰の唐松岳」に年寄り三人組が挑戦しました。しかし天候に恵まれず、途中の八方池にて引き返し、次の日は快晴の上高地を久しぶりに散策してウオークを楽しんできました。雨のお陰で白馬コルチナホテルに宿泊でき「美人の湯」で10歳若返りました。

寄稿者:橋本(宗)さん

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北海道キャンプツーリング紀行(Ⅳ)

●北海道のパノラマ絶景は開拓と火山で作られていた。

4. 自然と和人の営みの歴史が見えた渡島(おしま)半島

◆激しい火山活動で造られている渡島半島

 苫小牧から支笏湖、有珠山、洞爺湖へと、渡島半島方面へ進みました。太平洋プレートが日本海溝で沈み込む時に生み出されたマグマが上昇してできた、北は利尻島から、南は赤城山、浅間山と続く東日本火山帯、渡島半島にその火山帯の火山やカルデラが密集しています。渡島半島をGoogleMapの航空写真等で見ると、いくつもの火山、カルデラ地形、火口湖が見られます。そのいくつかに訪れました。

・今も活発な火山活動をする有珠山、その有珠山ロープウェイで登った中腹から見下ろした昭和新山の迫力。2000年洞爺湖温泉街に近い有珠山山麓で発生した噴火口の生々しさと、その時一帯の隆起活動でねじれて大きく傾いた町道

・きれいな火山の山容を見せる羊蹄山

・かつては富士山、羊蹄山と同様な姿をしていただろう、しかし猛烈な噴火で山体が変わってしまった駒ヶ岳。駒ヶ岳を南側から見た姿からは想像できなかった、北側の凄まじい噴火の跡

・旅の終盤に立ち寄った登別温泉地獄谷の異様な姿、川面からは湯気が立ち上がっている火口湖大湯沼から流れ出す川

・苫小牧の北西にある異様な形状の三重ドームを持つ樽前山とその広大なすそ野に広がる樹林

数十キロの範囲に火山地形が密集する渡島半島、改めて火山国日本を感じました。しかし見落としてはいけないのは、北海道の形で特徴的な大きな弧を持つ「内浦湾」はカルデラなの? ということ。長万部を移動中、標識には「噴火湾」と明記されているのを多く見かけました。私もここに巨大なカルデラがあったのだろうという理解をしていました。後で調べると、ここには噴火地層がないということから、単に丸い湾、「内浦湾」が正しい、と知りました。

◆北海道で初めて和人の風土を感じた松前藩の地、函館へ

 渡島半島を南に下り函館に入ると、それまでの北海道紀行では感じなかった和人の歴史・風土を感じるようになりました。松前藩が蝦夷に領地を持つようになったのが江戸時代の初め頃から。お寺、神社の風格や棟数、街の家の作りが日本的というか、本州的となり、お墓の規模一つにも年月の流れを見て取ることができました。今まで見てきた北海道的な風景ではなく、日本的な見慣れた風景と言えます。松前藩の時代、北には和人が一冬さえも超すことができない広大で未開の蝦夷の地が広がり、そこは和人にとっての空白地帯だったのです。その空白地に列強やロシアが侵入することを懸念し、徳川幕府は仙台藩などの東北の藩に蝦夷の地の警備をさせていた。しかし本格的な和人の蝦夷への進出は、明治の時代が始まり函館戦争が終結した後であります。明治維新で禄を失った士族達が藩ごとに入植、士族中心とした屯田兵による開拓。そして網走の話で前述した収監所、後の監獄・刑務所の囚人達によるインフラ・道路整備、会社・結社による入植開拓と続き、皇族御料地や国有地の払い下げ、地方の町ごとの入植と、100年という短い期間に一気に松前の地から、大地の奥へと開拓が北海道内へ広がっていった。和人の風土を、300年、400年と和人の歴史がある函館に来てようやく感じたのも、また他の地ではあまり感じなかったのも、大きな時間の差があるから当然です。

渡島半島の西側にある小さな魚港の町、乙部町。ここの漁港に「北海道が始まった地」という碑が建っていました。函館戦争時五稜郭に立てこもる旧幕府軍を討伐するために、官軍の戦艦が乙部沖合に停泊し、上陸、函館の町・五稜郭へ向かったと記載されていました。この後、蝦夷は新政府により北海道と命名され開拓が始まったことを受け、「北海道が始まった地」と記録したとのこと。

◆溶岩性の切り立った崖が続く追分ソーランラインを北上 

日本海沿いに北上するニシンを追って行われたニシン漁で繁栄した、という共通の文化を有する地域が松前から留萌へと伸びています。その地域を結んでニシン街道と呼ばれています。今回は函館から乙部町で日本海側に出て、海岸線を岩内まで走りました。北海道の民謡『江差追分』、『ソーラン節』発祥の地でもあることから、「追分ソーランライン」とも言われています。ニシンといい、ソーラン節といい日本海的なイメージが湧いてきますが、道は花崗岩の大きな岩壁や、柱状列柱が見事な崖、また溶岩性のごつごつの岩肌と岩の屋外博物館のような景色が延々と続きます。はるかな岬を回ると、小さな町、漁港と現れては消えてゆくという繰り返し。途中海岸の浜のキャンプ場で見た、落日夕日は素晴らしかったです。

◆インバウンド繁栄ニセコ、でも雪がないニセコは、なぜか寂しい、日本の高原に戻っていました

岩内の海岸線から、洞爺湖まで結ぶニセコパノラマラインという峠道を走り、ニセコの高原を目指します。峠には神仙沼という山岳湖沼があります。峠の駐車場から、林に設けられた遊歩道を1km程進むと視界が開け、木道が設けられた湖沼にたどり着きます。残雪が残る峰と、小さな花が咲く大小の湖沼が、見事な景色を見せてくれました。峠を下りニセコの町へ。羊蹄山がどこからでも美しく見えるニセコ町、倶知安町、京極町といくつかの町を通過。冬季は上質な雪が積もり極上のスキーエリアとなる一帯で、高級国際リゾート地、日本にして日本にあらずの地、しかし訪れた6月中旬のニセコは、人の訪れが途絶えて寂しさがただよい、ここは日本のどこにでもある、少しブームが去った高原に戻っていました。

◆さあ、明日はフェリーで北海道を離れる日、でもフェリー欠航メールが届く

北海道と関東の天気予報をにらめっこして2日前に土曜夕方のフェリー便を予約していたのですが、九州東海と北上している低気圧の影響で、フェリーは欠航。欠航日から2日後までフェリーが出なくなってしまい、北海道ツーリング行程に、2日の空白日が生じてしまった。この2日間は当然北海道の天気も不安定であり、長距離移動、テント泊も厳しいということで、フェリーに乗る苫小牧に近い白老の町にあるゲストハウスに2泊することにしました。京極町から洞爺湖町と南下し、海沿いに伊達町、室蘭と霧雨の中を進みました。フェリーが予定通り動くならば、大回りとなるため通らなかった道です。これも旅の楽しみと、霧雨の中を室蘭港・白鳥大橋、地球岬と回り、苫小牧方面に前進しました。翌日は路線バスで登別温泉地獄谷と温泉に行ったり、翌々日は「熊出没注意」看板に慄きながら樽前山の7合目まで登ったりと「北海道ツーリングおまけ」を楽しみました。北海道上陸18日目の夕方、苫小牧港から大洗に向かうフェリーに乗船し、「北海道キャンプツーリング」を終えました。

北海道のパノラマ絶景を堪能、そしてちょっと青春を感じた北海道キャンプツーリングでした。

「1. 遥かなる大地の懐へ」編は⇒こちら

「2. 自然と開拓の厳しさを垣間見た大地の果てへ」編は⇒こちら

「3. 多様な自然を見せる大地で」編は⇒こちら

「5. 北海道キャンプツーリング記録」編は⇒こちら

北海道キャンプツーリング紀行 (Ⅲ)

●北海道のパノラマ絶景は開拓と火山で作られていた。

3. 多様な自然を見せる大地で

◆三湖三様のカルデラ湖 摩周・屈斜路・阿寒湖

北海道の湖といえば、摩周湖・屈斜路湖・阿寒湖、の三つの湖。これらの湖は太平洋プレートが、北海道が乗る北米プレートの下にねじり込んでできた知床半島と、そこにできた火山列の先端部分にあり、10万年程の間のカルデラ火山活動によりできた湖と共通する湖である。今日の目的地はこの三つの湖を訪れること。

摩周湖:山の下では霧雨でしたがカルデラ火口のヘリに到達すると、霧雨の雲が消え、湖面に霧が少し溜まっているものの湖面と中島(溶岩ドーム)がうっすらと見ることができた。しかし湖面は、はるか下にあり、摩周湖は霧の中にあって遠くから眺める湖、神秘の様相を崩しませんでした。

屈斜路湖:日本最大のカルデラ湖 カルデラ地形の半分に湖、もう半分に牧場が広がっています。広いが故、観光客はまばらで、静けさも広がっていた湖でした。

阿寒湖: 湖畔の一角には、温泉ホテルと観光土産屋さんが集中する観光地

三湖三様のカルデラ湖巡りでした。

さて当日は六月第一土曜日。小学校校庭では、小学校と地域の合同運動会が開催されているのを複数見かけました。 周辺の広大さと裏腹に意外と小さい校庭で、こじんまりと運動会が行われていました。校庭の上に張られているのが万国旗ではなく「開拓100周年記念」等の横断幕。開拓を通じて培ってきた地域の繋がりを大切にしている運動会なのでしょう。

◆広大な十勝を通り、黄金街道を抜け、北海道の背骨の先端襟裳岬へ

車道幅が広く、両脇にある歩道?いやトラクター道?も広く(実際に長い触手のような散水パイプを装着した大型トラクターが走行していました)、町の郊外に出ると信号ストップがない道が伸びる十勝の平野を南へ移動。広尾町に着くころから、周辺のにおいは牧場の臭いから、磯の匂いへと変化。海岸の崖に開けた幾つものトンネルが続く黄金街道で襟裳岬を目指します。黄金街道とは、ずばりお金がかかったことが由来。トンネル部分の海側には、険しい崖を切り開いて造った旧道(現在は閉鎖中)が並行して残っています。ここは日高コンブの里でもありますので、昆布街道とでも命名してもいいのでは。襟裳岬が近づくと、崖の地形から、草原の台地の地形となり視界が広くなります。しばらく、うねる草原の道を走ると菱形の形をする北海道の宗谷岬の対角にあたる襟裳岬に到着。日高山脈の延長線であり、峰が海底まで続くところが襟裳岬、それが周囲の景色からよく見て取れるところが面白い襟裳岬、当日の天候の影響でしょう「何もない襟裳岬」ではなく、「青空と緑の草原と、白い灯台がまぶしい襟裳岬」でした。

◆並行して走る日高本線廃線跡が寂しい日高の道

襟裳岬の西側も日高山脈の山が海に落ち込み厳しい海岸線が続きます。海岸と崖の間に伸びるJR日高本線の線路と道道が何度も交差しながら苫小牧へと伸びています。しかし線路を走る列車の姿を見ることはなく、線路は赤く、海岸に近い鉄橋は痛み、ただただ踏切の信号機だけが目新しいJR日高本線の跡が、辺境の寂しさを感じさせます。JR日高本線は2015年1月の爆弾低気圧により高波被害を受け、さらに2016年の台風で追い打ちをくらって不通→復旧不能→一部廃線となってしまったとか。しかしそんな寂しさとは裏腹に、新冠町に近づくと、サラブレットが放牧された牧場を多く見かけるように。新冠の町には「サラブレット銀座」という道があり、道の両側には、たぶん有名な競走馬のふるさとであろう牧場が多数続いていました。廃線と銀座通り、なんともギャップのあるところでした。

◆厚真町のその後、自然の脅威・恐ろしさは薄れない

苫小牧の北東に厚真町があります。昨年2018年の夏、厚真町を襲った「胆振(いぶり)東部地震」、厚真町の山肌表層が崩れ、爪痕だらけになったのをテレビ報道で見て、自然が時々顔をのぞかせる脅威・恐ろしさを強く感じたことが思い出されます。少し寄り道ではありましたが、現場に足を延ばしました。厚真町に近づくにつれ、アスファルト道の亀裂を修復する工事通行規制区間も多くなり、山肌がえぐれた山容が目につくようになりました。現在災害復旧工事の現場事務所があちらこちらにあり、現場の山に対比して小さく見える重機が、何台も稼働しているのが見えます。しかし現時点ではあくまでも復旧工事であって、防災工事でないのです。この地の自然の特性とその脅威を知ったならば、山を背にして暮らすことにためらいが生じ、この地に生活する人たちの苦悩が察しられます。

 

 

 

 

 

 

「1. 遥かなる大地の懐へ」編は⇒こちら

「2. 自然と開拓の厳しさを垣間見た大地の果てへ」編は⇒こちら

「4. 自然と和人の営みの歴史が見えた渡島(おしま)半島」編は⇒こちら

東京ドーム都市対抗野球第二回戦と準々決勝の試合応援に行きました

7月22日東京ドームで行われた、都市対抗野球 準々決勝の試合 Panasonic 対 JFE東日本(千葉)の試合応援に行きました。結果は1:3で負けましたが、終盤は応援に熱が入りました。

7月18日東京ドームで行われた、都市対抗野球 第二回戦 Panasonic 対 東邦ガス(愛知)の試合応援に行きました。

結果は、Panasonicが2:1で逆転勝ちしました。

 

 

春の青森紀行:金井さん

元号が平成から令和にかわり、史上初の10連休が実現した。

その初日の4月27日から28日にかけて青森県を旅してきました、きっかけは青森にいる私の書道仲間が開催する、青森地区連合書道展に招待されたのでその見学を兼ね青森の旅を計画しました。

羽田を一番の飛行機で発ち青森空港に到着すると、現地情報によると出発当日は雪とのことでしたが、その雪も止み天気は回復、地元仲間の出迎えを受けバスで市内へ向かいました。まずねぶた会館で昨年の優秀作品を見学、その迫力圧倒され、また同会場でおこなわれた和太鼓のショーも迫力満点でした。午後は青森地区連合書道展をじっくり見学、仲間たちの力作に感動しました。夜は祝賀会が模様され、本場の津軽三味線の演奏に感動、ホテルに戻り二次会で話が弾みました。

翌日はバスで弘前へ。昨日とは異なり日本晴れ。車窓から山頂に雪の冠を被った岩木山の雄姿に感動し、まずは弘前城へ。日本一の桜や堀に浮かぶ花筏、石垣補修中のため移動した弘前城を見学。昼食後特別史跡三内丸山遺跡を見学し、夕方青森に戻り帰路につきました。短かったが意義有る旅でした。

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北海道キャンプツーリング紀行 (Ⅱ)

●北海道のパノラマ絶景は開拓と火山で作られていた

2. 自然と開拓の厳しさを垣間見た大地の果てへ

◆稚内は原野の果てにあった。

つぎに向かったのは北海道バイクツーリングでは誰もが目指す、日本の北の果て稚内・宗谷岬。

旭川を過ぎ士別・名寄と北上。この頃になるとカーナビ画面に表示されるのは、赤い直線(ナビ道)1本のみ。画面に表示される脇道なし、建物なしと実にシンプル画面。実景色も青空と山と川とぽつんと時々現れる小さな町、「随分と北上してきたな感」いっぱい。

そして天塩川沿いに進み、利尻島が見える天塩川の河口の町、天塩町に到着し漁港横でキャンプ。「夕日と利尻島」の写真撮りをしたかったのですが、その時間になると怪しい雲が空を覆っていました。翌日これまでの「快適・爽快・絶景」のツーリングから、数日間の「寒い・忍耐・絶景」のツーリングが待っていました。

小樽から日本海沿いに稚内までの「日本海オロロンライン」、天塩からサロベツ原野をまっすぐ北に延びるオロロンラインを走りノシャップ岬・稚内を目指します。空はどんよりとし、冷たい強い風が吹き、地の果て感いっぱいのサロベツ原野。そこを走るJR宗谷本線。はたしてその果てにある終着駅の町、稚内は・・・。これが意外と途中の景色からは想像できなかった大きな街、普通の街で驚き。そして北海道ツーリングの定番「宗谷岬」。「ここに来ましたよ!証拠写真」を撮り、宗谷丘陵へ上りました。ここは海岸沿いの景色とは別世界、異国の景色が広がっています。大きくうねる緑の丘にあるのは牧場の建物がひとつと、ひときわ高い丘の上にレーダーサイトと、風力発電塔と白い道。一年前の6月イギリス旅行で訪れた、ローマ皇帝ハドリアヌスがイギリス(ブリタニア)におけるローマ帝国国境としてイングランドとスコットランドの境に築かせたハドリアヌス長城、そこにあった荒涼とした景色、低い空、寒い雨と同じものが宗谷丘陵にありました。

◆オホーツクラインは果てしなく、そして寒かった

宗谷丘陵から東のオホーツクの海沿いの道に下り、網走まで続くオホーツクラインを走ります。菱形の形をする北海道の中で、一番長い辺を走るのがオホーツクラインです。広くてまっすぐな道が300km程続き、景色の左側はオホーツク海、右側は牧草地、時々小さな漁港か町,このパターンが延々と続きます。大型トラックの縦列が猛スピードで追い越しをかけてきます。えぇ 80kmオーバー? 60km制限ではないの?・・・もう途中から素直に道の端に寄ってよけるようにしました。(北海道に高速道路網は要りません。準高速一般道があるので)

途中猿払・エサヌカ線という脇道によりました。ここは幾つかの直線道路が続き、そのうち最長部分で長さ8kmの、見事にまっすぐで水平な道があるところです。道の先が陽炎のように(当日は寒かったので、あり得ませんが)霞んで見えます。通り過ぎたバイクの赤いバックライトがどこまで過ぎ去っても見えて消えません。すごい景色です。ただバイクで走るとなると違います。どんよりした空の下、霧雨が舞う、そして海側から吹き付ける強力な横風、どこまで走っても終わらない寒い道、このつらい道が永遠に続くのかと思いました。

このオホーツクライン沿いで見たり感じたりしたのは、やはり開拓の築き上げです。厳しい風土の中、原野を切り開き、町を造り、牧草地、農地を造り、漁港を造くってきた開拓史があるのです。特にこの北の端は、つい150年前は少数のアイヌしか住まぬ地で、和人はいなかった地です。北海道の南側の地とは異なり、小さな町、そしてお寺、神社をあまり見かけない、あっても新しい(伝統的な木造の建築ではなく、コンクリート製)、町の外の原野に小さな墓地、墓石も少ないと、土地の歴史が短いのが見て取れます。

オホーツクラインを網走に向かって走しっているとき、サロマ湖を過ぎた常呂町という場所に「岐阜地区」標識や「岐阜集落センター」看板がありました。私の出身地であるので気になり立ち止まりました。後に調べると北海道に集団入植した人たちの出身地が地名になっているところが多くあるとのこと。有名なのが奈良県十津川村から移住・入植して切り開いた新十津川村ですが、その移住の契機となったのは元の地域で発生した災害が村や町を壊滅的に破壊したため、新天地を北海道に求め、元の地名を付けたということだそうです。常呂町の「岐阜地区」は明治24年の濃尾地震、根尾川の氾濫で集団移住したとありました。明治、大正時代の災害(水害・関東大震災他)を受けて移住、入植という事例が本当に多くあるようです。※国土保全学研究室資料参照ください。

◆網走で知った大地の開拓の歴史

オホーツクラインを走り抜けたどり着いた網走、網走湖湖畔の無料キャンプ場にテントを張りました。 この網走湖の近くに「網走監獄博物館」があり、高倉健網走番外地の刑務所イメージを持って訪れてみました。その知識は昭和の時代としては間違いではなかったのですが、創設された明治の初めの時代では、違う役割を持っていたそうでイメージを大きく変えました。蝦夷の地が列強、とりわけロシアの植民地になるのを懸念した明治新政府は、北海道の大地を開拓し防衛・開拓・統治することが急務となっていました。 一方時代は西南戦争により多くの国事犯を生み、多くの囚人が発生していました。北海道に五か所集治監というものが設立された、その一つが網走の刑務所の前身だったそうです。かれら囚人達は、網走に着くと自分たちで宿舎を建て、食料を確保するところから始め、旭川と網走の間の道づくりをしたとのこと。当時は行き場を失った士族達が中心となった屯田兵による北海道開拓も進行していた時代で、このように新時代の裏側に回ってしまった士族達が北海道の厳しい大地の開拓を始めていったこと、また多くの人が気候と開拓の厳しさの中で死んでいった事を知りました。

◆知床はやはり神秘的だった

オホーツク海からの寒風と低い雲の天候はいっこうに良化しません。早朝テントの中で南の屈斜路湖方面へ行くか、知床方面へ行くか、スマホの天気予報データとにらめっこしながら出した結論は、東の方が天気は良いだろう知床へ行こう、という事でした。網走、斜里と進み、知床峠で太平洋側に出るルートです。何度も書きますが「オホーツク海の風が寒い!」。知床半島の海岸線に入ると山肌を低い雲が覆い知床峠越えの天候が、ますます気がかりとなってきました。しかし知床峠につく頃、雲が切れ青空が見えてきました。そして雲の上に残雪の羅臼岳の頭が覗いています。峠を越した太平洋側の天候は晴れ! 国後島もくっきり見えます。神々しい羅臼岳他いくつもの峯を背に神秘的な知床峠を羅臼の町へ下りました。

◆北方領土は目の前

羅臼・標津、そして北海道の地形の不思議?野付半島へと、左手に国後島を見ながら進みます。20kmから30kmの海の先に国後島がくっきりと見えます。明治の時代からロシア人の侵入に脅かされた島々、そして既成事実がどんどん進む現代、国境ではないが、国境以上に露骨な境界線が目の前に引かれている現実、その境界線が後退する見通しも感じられない将来。北方領土に無感心でおれば、いるほど境界線が接近してくるかもしれないと、ロシア国家に対する恐怖を憤りを感じました。

◆中標津、ここは日本?

みなさんGoogle Mapの航空写真で中標津町周辺を覗いてみてください。きっちりした5km四方の緑の升目が見えます。枡目のラインは酪農農家の区画境界線の林の緑です。升の中には数軒の牧場の建物が見えます。当然道もまっすぐ! すれ違う車も少ない。牧場入口に表札ならぬ牧場名を書いた西部劇に出てくるような車輪がついた看板、小型トラクターを釣り上げた看板などが、それぞれに建っています。敷地が広大であるが故に必要と理解しましたが、「ここは日本??」と思ってしまう景色です。

◆釧路湿原見られず、また寒さに心おれた日

前日のすがすがしい天候もつかぬ間、昨晩夜中から朝方と、雨がテントを叩きます。これでは、ここ野付半島の根元にある町のキャンプ場で、もう一日留まりかとあきらめていました。しかし9時に雨が途切れたのを見て急いでテントをたたみ、天候が回復することを見越して、西へ移動することとしました。目的地は釧路湿原にあるキャンプ場です。しかし釧路に進むに従て、雨は霧雨に変わったものの、寒さがぐっと増してきました。そろそろ釧路湿原という頃に、目的地の釧路湿原近傍にあるキャンプ場を再チェックしていると、「キャンプ場は2019年閉鎖・・・・」の記事が目に入ってきました。この天候の中をさらに長距離移動して、第二候補のキャンプ場へ移動するのは、もはや気力が湧いてこず、JR釧網本線無人駅 茅沼駅舎に入り込み、スマートホンで近傍のキャンプ場を調べたり、せめてここまで来たのだからと釧路湿原を眺められるところがないのかと調べたりしました。 そしてさらに服を着こみ、休憩した無人駅から約1時間の走りのところにある今日の宿泊キャンプ場を目指して出発しました。ただ湿原は全く見られず、ただただ寒さとの戦いで終わった一日でした。(写真撮りも少なし)

 

 

 

 

 

「1. 遥かなる大地の懐へ」編は⇒こちら

「3. 多様な自然を見せる大地で」編は⇒こちら