北海道キャンプツーリング紀行 (Ⅱ)

●北海道のパノラマ絶景は開拓と火山で作られていた

2. 自然と開拓の厳しさを垣間見た大地の果てへ

◆稚内は原野の果てにあった。

つぎに向かったのは北海道バイクツーリングでは誰もが目指す、日本の北の果て稚内・宗谷岬。

旭川を過ぎ士別・名寄と北上。この頃になるとカーナビ画面に表示されるのは、赤い直線(ナビ道)1本のみ。画面に表示される脇道なし、建物なしと実にシンプル画面。実景色も青空と山と川とぽつんと時々現れる小さな町、「随分と北上してきたな感」いっぱい。

そして天塩川沿いに進み、利尻島が見える天塩川の河口の町、天塩町に到着し漁港横でキャンプ。「夕日と利尻島」の写真撮りをしたかったのですが、その時間になると怪しい雲が空を覆っていました。翌日これまでの「快適・爽快・絶景」のツーリングから、数日間の「寒い・忍耐・絶景」のツーリングが待っていました。

小樽から日本海沿いに稚内までの「日本海オロロンライン」、天塩からサロベツ原野をまっすぐ北に延びるオロロンラインを走りノシャップ岬・稚内を目指します。空はどんよりとし、冷たい強い風が吹き、地の果て感いっぱいのサロベツ原野。そこを走るJR宗谷本線。はたしてその果てにある終着駅の町、稚内は・・・。これが意外と途中の景色からは想像できなかった大きな街、普通の街で驚き。そして北海道ツーリングの定番「宗谷岬」。「ここに来ましたよ!証拠写真」を撮り、宗谷丘陵へ上りました。ここは海岸沿いの景色とは別世界、異国の景色が広がっています。大きくうねる緑の丘にあるのは牧場の建物がひとつと、ひときわ高い丘の上にレーダーサイトと、風力発電塔と白い道。一年前の6月イギリス旅行で訪れた、ローマ皇帝ハドリアヌスがイギリス(ブリタニア)におけるローマ帝国国境としてイングランドとスコットランドの境に築かせたハドリアヌス長城、そこにあった荒涼とした景色、低い空、寒い雨と同じものが宗谷丘陵にありました。

◆オホーツクラインは果てしなく、そして寒かった

宗谷丘陵から東のオホーツクの海沿いの道に下り、網走まで続くオホーツクラインを走ります。菱形の形をする北海道の中で、一番長い辺を走るのがオホーツクラインです。広くてまっすぐな道が300km程続き、景色の左側はオホーツク海、右側は牧草地、時々小さな漁港か町,このパターンが延々と続きます。大型トラックの縦列が猛スピードで追い越しをかけてきます。えぇ 80kmオーバー? 60km制限ではないの?・・・もう途中から素直に道の端に寄ってよけるようにしました。(北海道に高速道路網は要りません。準高速一般道があるので)

途中猿払・エサヌカ線という脇道によりました。ここは幾つかの直線道路が続き、そのうち最長部分で長さ8kmの、見事にまっすぐで水平な道があるところです。道の先が陽炎のように(当日は寒かったので、あり得ませんが)霞んで見えます。通り過ぎたバイクの赤いバックライトがどこまで過ぎ去っても見えて消えません。すごい景色です。ただバイクで走るとなると違います。どんよりした空の下、霧雨が舞う、そして海側から吹き付ける強力な横風、どこまで走っても終わらない寒い道、このつらい道が永遠に続くのかと思いました。

このオホーツクライン沿いで見たり感じたりしたのは、やはり開拓の築き上げです。厳しい風土の中、原野を切り開き、町を造り、牧草地、農地を造り、漁港を造くってきた開拓史があるのです。特にこの北の端は、つい150年前は少数のアイヌしか住まぬ地で、和人はいなかった地です。北海道の南側の地とは異なり、小さな町、そしてお寺、神社をあまり見かけない、あっても新しい(伝統的な木造の建築ではなく、コンクリート製)、町の外の原野に小さな墓地、墓石も少ないと、土地の歴史が短いのが見て取れます。

オホーツクラインを網走に向かって走しっているとき、サロマ湖を過ぎた常呂町という場所に「岐阜地区」標識や「岐阜集落センター」看板がありました。私の出身地であるので気になり立ち止まりました。後に調べると北海道に集団入植した人たちの出身地が地名になっているところが多くあるとのこと。有名なのが奈良県十津川村から移住・入植して切り開いた新十津川村ですが、その移住の契機となったのは元の地域で発生した災害が村や町を壊滅的に破壊したため、新天地を北海道に求め、元の地名を付けたということだそうです。常呂町の「岐阜地区」は明治24年の濃尾地震、根尾川の氾濫で集団移住したとありました。明治、大正時代の災害(水害・関東大震災他)を受けて移住、入植という事例が本当に多くあるようです。※国土保全学研究室資料参照ください。

◆網走で知った大地の開拓の歴史

オホーツクラインを走り抜けたどり着いた網走、網走湖湖畔の無料キャンプ場にテントを張りました。 この網走湖の近くに「網走監獄博物館」があり、高倉健網走番外地の刑務所イメージを持って訪れてみました。その知識は昭和の時代としては間違いではなかったのですが、創設された明治の初めの時代では、違う役割を持っていたそうでイメージを大きく変えました。蝦夷の地が列強、とりわけロシアの植民地になるのを懸念した明治新政府は、北海道の大地を開拓し防衛・開拓・統治することが急務となっていました。 一方時代は西南戦争により多くの国事犯を生み、多くの囚人が発生していました。北海道に五か所集治監というものが設立された、その一つが網走の刑務所の前身だったそうです。かれら囚人達は、網走に着くと自分たちで宿舎を建て、食料を確保するところから始め、旭川と網走の間の道づくりをしたとのこと。当時は行き場を失った士族達が中心となった屯田兵による北海道開拓も進行していた時代で、このように新時代の裏側に回ってしまった士族達が北海道の厳しい大地の開拓を始めていったこと、また多くの人が気候と開拓の厳しさの中で死んでいった事を知りました。

◆知床はやはり神秘的だった

オホーツク海からの寒風と低い雲の天候はいっこうに良化しません。早朝テントの中で南の屈斜路湖方面へ行くか、知床方面へ行くか、スマホの天気予報データとにらめっこしながら出した結論は、東の方が天気は良いだろう知床へ行こう、という事でした。網走、斜里と進み、知床峠で太平洋側に出るルートです。何度も書きますが「オホーツク海の風が寒い!」。知床半島の海岸線に入ると山肌を低い雲が覆い知床峠越えの天候が、ますます気がかりとなってきました。しかし知床峠につく頃、雲が切れ青空が見えてきました。そして雲の上に残雪の羅臼岳の頭が覗いています。峠を越した太平洋側の天候は晴れ! 国後島もくっきり見えます。神々しい羅臼岳他いくつもの峯を背に神秘的な知床峠を羅臼の町へ下りました。

◆北方領土は目の前

羅臼・標津、そして北海道の地形の不思議?野付半島へと、左手に国後島を見ながら進みます。20kmから30kmの海の先に国後島がくっきりと見えます。明治の時代からロシア人の侵入に脅かされた島々、そして既成事実がどんどん進む現代、国境ではないが、国境以上に露骨な境界線が目の前に引かれている現実、その境界線が後退する見通しも感じられない将来。北方領土に無感心でおれば、いるほど境界線が接近してくるかもしれないと、ロシア国家に対する恐怖を憤りを感じました。

◆中標津、ここは日本?

みなさんGoogle Mapの航空写真で中標津町周辺を覗いてみてください。きっちりした5km四方の緑の升目が見えます。枡目のラインは酪農農家の区画境界線の林の緑です。升の中には数軒の牧場の建物が見えます。当然道もまっすぐ! すれ違う車も少ない。牧場入口に表札ならぬ牧場名を書いた西部劇に出てくるような車輪がついた看板、小型トラクターを釣り上げた看板などが、それぞれに建っています。敷地が広大であるが故に必要と理解しましたが、「ここは日本??」と思ってしまう景色です。

◆釧路湿原見られず、また寒さに心おれた日

前日のすがすがしい天候もつかぬ間、昨晩夜中から朝方と、雨がテントを叩きます。これでは、ここ野付半島の根元にある町のキャンプ場で、もう一日留まりかとあきらめていました。しかし9時に雨が途切れたのを見て急いでテントをたたみ、天候が回復することを見越して、西へ移動することとしました。目的地は釧路湿原にあるキャンプ場です。しかし釧路に進むに従て、雨は霧雨に変わったものの、寒さがぐっと増してきました。そろそろ釧路湿原という頃に、目的地の釧路湿原近傍にあるキャンプ場を再チェックしていると、「キャンプ場は2019年閉鎖・・・・」の記事が目に入ってきました。この天候の中をさらに長距離移動して、第二候補のキャンプ場へ移動するのは、もはや気力が湧いてこず、JR釧網本線無人駅 茅沼駅舎に入り込み、スマートホンで近傍のキャンプ場を調べたり、せめてここまで来たのだからと釧路湿原を眺められるところがないのかと調べたりしました。 そしてさらに服を着こみ、休憩した無人駅から約1時間の走りのところにある今日の宿泊キャンプ場を目指して出発しました。ただ湿原は全く見られず、ただただ寒さとの戦いで終わった一日でした。(写真撮りも少なし)

 

 

 

 

 

「1. 遥かなる大地の懐へ」編は⇒こちら

「3. 多様な自然を見せる大地で」編は⇒こちら

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です